ふねとともにあればよい
「誰か一人がやめるんだったら、皆でやめた方がいいとずっと思ってた」と、いのっち。
「8年前を思い出すと、3人で一緒に船に乗って旅に出たような気がしたの。だから旅が終わるんだったら一緒に船を降りるのが普通だよね。」
あさイチ降板のおしらせフレーズ。
このフレーズに大泣きして嘆きが止まらなかったのはなぜだろうと思いました
私が嘆いたのは
ともに船に乗る相手が
共に旅をする相手が
一緒に船を降りる相手が
今までの50年
そして
これからの50年
すれ違うことすらない(だろう)ことでした。
切望しながら手に入る見込みがないものは、心身を蝕みます
心身を痛めるだけの、害にしかならないのぞみ 。
全身の痛みにしかならないこの望みを
どう処理しようか思い巡らせました。
会えないものは仕方がない
ないものは仕方がない。
ならば、どうやって
共に旅する感覚
共に旅を降りる感覚を
自分に与えることができるか。
人が無理なら
船自身に「とも」になってもらえば良い。
船と一緒に旅に出て
船と一緒に旅から降りたらよい。
この思いで、
嘆きの痛みが消えました。
人をのぞむから痛むなら
人を望まないやり方を作れば良い。
先日、雪山の温泉までの道でずっと聞いていたのは
「ねがい」という歌でした
http://j-lyric.net/artist/a000701/l043af9.html
あの歌をエンドレスで流しながらからずっと泣いていたのは
願い叶うことが思い浮かばなかったから。
ならば、あの歌を船とともにかなえればよいのだ。
この命でこの地上でどういう形で叶うか分からないけれど
船、が何を指すのかもわからないけれど
つねに船と共にあり
いつか船とともに降りられるなら
もうしばらくはたえられると思います。